キャッツの誤解を解くために必死なので超絶長文です。
一部ネタバレになるところがありますので(それが困るほどのストーリー性はありませんが)気になる方は観賞後にご覧ください。
キャッツの履修レベルによってモヤモヤポイントが異なる映画
キャッツ、みなさん観ましたか?日本公開前から酷評すぎて賑わっていたあの映画です。
私も情報が出た頃からめちゃくちゃ楽しみにしながら怖れていました(怖れていた理由はあとで)
先日公開初日に観に行って、「うんなるほど」となりました。
この映画には、観る人のベースの知識レベルに応じていくつか誤解されるポイントがあります。
単純な映画としてのクオリティとは無関係なその誤解によって評価が不当に下がるのはあまり喜ばしいことではありません。
せっかくの機会なので、CATSについて明日すぐに職場でドヤ顔でウンチクたれることが可能な情報をお届けしたいと思います。
この記事が役に立つ対象者のキャッツ履修レベル
- ミュージカルCATSを、どのバージョンも観たことがない人
- 劇団四季のCATSしか観たことがない人
- キャッツの「原作」がミュージカルだと思っている人
- あまつさえ「劇団四季」が原作だと思ってる人
前述の対象者向けに記述していきますので、当てはまらない人からの言い回しや用語の正確性などについてのダメ出しは無視します。
この記事を書いた人はキャッツがちゃんと好きです
キャッツを好きでもない映画評論家、原作を知らない映画評論家のようなコメントはしませんので安心してください。
CATSに限らずミュージカルもストレートプレイも大好きだった私は、好きすぎて四季株式会社(劇団四季の運営企業)に就職しました。
いろいろあって転職しちゃいましたが、作品は今も好きです。
私がとくに劇団四季版CATSにハマっていたのは五反田時代で、まああまりお金もない頃なので多くてもせいぜい週1くらいで通っていました。
個人的な好みでいうと、1階席しかない広い劇場はどうしても全体が明るくなってしまい、いろいろうっすら見えてしまうのが好きではありませんでした。
本当に暗闇に猫が浮かび上がってくるような、ドキドキしたりビックリするあの五反田の小さい劇場とジェリクルギャラリーが好きでした。
ちなみに世の中には本当に年間300回くらい観賞している猛者がいましたので、私の顧客レベルは雑魚です。
あ、こういうこと書くと「四季は客をそう見てるのか」ってクソリプしてくる人とかいるので言っておきますけどこれはすでに四季の従業員ではなくなった私個人の言葉ですよ。
そもそもCATSの「原作」とは?
今回映画化されたCATSという作品は、もともと生の舞台で上演されるミュージカルであることを知っている人は多いと思います。
ですが、そのミュージカルを「原作」だと誤解している人も多いと思います。
現に、私が観賞した時同じ列にいた知ったか女子が「いや〜原作と違っててさ〜」「ランパス出なかったね〜」とか言っていたので詰め寄りそうになったくらいですが、劇団四季版CATSのファンでもその程度の認識だったりします。
ミュージカルCATSはもともと「原作」と違いますからね。
「キャッツ」っていう小説とかがあるわけではありません。
T.S.エリオットが書いた、詩です。
T.S.エリオットはとにかく猫が大好きすぎる猫かわいい猫が正義な人であり、猫についての詩を何篇も紡いでいます。
それがまとまった詩集が「The Old Possum’s Book of Practical Cats」であり、これがいわゆる「原作」です。
もちろん詩としての美しさ、それがそのまま歌詞の美しさにもなっているので、原詩を読んだり、英語版のロンドンオリジナルキャストの音源などを聴くのもおすすめです。
あとまた個人的な話で脱線しますが、エロール・ル・カインという絵本作家がこのキャッツのうちいくつかを題材に絵本を描いていて、それがめちゃくちゃ好きなのでそれもおすすめしておきます。
長野の絵本ミュージアムで展示してたときにちょうど見に行けて嬉しかったです。
ねこかわいい。
「キャッツ」にいわゆるストーリー性はない
ここでひとつ疑問がわいてくると思います。
「えっ?じゃあヴィクトリアが捨て猫だったり、マキャヴィティが舞踏会で勝とうとするのは?」
そんなストーリー性ありません。
マキャヴィティおまえなにやってんだマジで。
おそらく多くの人が初見で思うのは、「なんかずっと猫の紹介してるだけだったね」です。
「ストーリー薄くない?」
「で?どういうこと?」
「ねこはいぬとちがーうwww」
って思うんですよね。わかりますよ。そういうふうに思った人を責めません。
そもそも「ミュージカルにはストーリーがある」「映画にもストーリーがある」「なんだか深く繋がった伏線やどんでん返しがありドキドキハラハラしながら展開していき主人公が成長したりする」というのが誤解で、たとえば劇団四季で上演していた「コンタクト」などセリフ自体がほぼありませんし、なんなら歌もほぼありません。
「これをミュージカルと呼ぶのか」という懐疑的な意見すらありました。
(私の意見では「歌」ではなく「音楽」で表現する演劇作品をミュージカルとカテゴライズして何が悪いと思ってます)
感動するストーリーやわくわくするストーリーを期待しているのは観客の勝手だけども、それがない作品もちょくちょくあるんですね。
今回の映画が薄かったのではなく、CATSにはもともと深いストーリー性はなく、深いストーリー性を表現しようとすらしていない作品であるということです。
とにかくこの作品の本筋は「猫の紹介」なんです。それが中身なんです。
あんな猫がいる、こんな猫がいる、そしてそれらは「人間とどこか似ている」。
せいぜいそういうことです。
ただそれを今回の映画化では、ストーリーに肉付けしようとしていたように思います。
曲の面白さを削り、ストーリーも半端になり、ミュージカルファンは前者で、初見の観客は後者を理由に「物足りない」「つまらない」と感じることになってしまったと推察します。
では「キャッツ」が伝えたいことはなにか
キャッツというよりも、T.S.エリオットが表現したかったことは何かという話なのですが、私の個人的な考察も含むのでここは職場でドヤって話さないでほしいところです。
答えは
「猫っていいよね」
です。
深い意味なんてないんです。
「猫まじどこにいるかわかんねw」
「猫まじイタズラがすぎるわw」
「猫エサのときだけ寄ってくるわw」
これらをそのまま、それぞれの猫の個性にフォーカスして、音が気持ち良い詩にしているだけです。
ラストの「猫のごあいさつ」で歌われる「猫は犬に非ず」「あなたの知ってる誰かと似ている」「猫には貢物をしなさい」というメッセージは、そのままストレートにそういう意味です。
つまりそこだけ伝われば良くて、観た人が「猫ってそうよなw」と思うだけで良い、そういう作品です。
もちろんそれを自分の人生や感性と結び付けて意味を見出したり、何かを感じとること、新しい発見をすること、視野が広がること、それらは素晴らしいことで、それを得た方にとってはミュージカルCATSは非常に面白い作品と映ることでしょう。
そうでない人にとっては、「猫ってそうよなw」でしかなくて良いのです。
CATSは観る人を選ぶ
ここまででなんとなくわかってきたと思いますが、実はミュージカルCATSという作品は超名作で名前は誰でも知ってる割には、ミュージカルとしてはかなり特殊ですし観る人を選びます。
映画版の面白さどうのこうの以前の問題で、もともとこの作品は観る人を選ぶんですね。
- ミュージカルCATSは、観る人を選ぶ
- ミュージカルファンでも、CATSが意味わからんという人も多い
- 逆にミュージカルに興味がないのに、CATSはショーとして好きという人も多い
- オムニバス形式のため、CATSが好きな人でも、好みに合わないパートで寝そうになることがある
壮大なストーリーを期待すれば期待はずれ、逆に難しい話が苦手な人は歌とダンスだけで楽しい!みたいなことです。
あと猫好きは猫あるあるを観て楽しめます。
人それぞれ、面白い面白くないのベクトルが違っていても良くて、ひとつの軸だけで語れないのがそれもまたミュージカルCATSの面白さです。
このことを知っていて面白いと感じないのか、知らなくて「思ってたのと違った」だけなのかで話は変わってきますね。後者はただもったいない。
でも、面白さが理解できなかったとしても、その人が悪いわけではありません。バカにされることでもありません。この作品は、もともとのジャンルの好みとは別に、「人による」、「相性がある」、ただそれだけです。
それを踏まえて、もう少し知って観たら見かたが変わって面白く感じられるかもしれない。
それを期待して説明していきたいと思っています。
原作がミュージカルじゃないのはわかった、じゃあオリジナル版ミュージカルとの違いは?
舞台版のCATSを観たことがない人でも、映画との違い、一目でわかりそうですが、まあ衣装があれだよね。うん…
ビジュアルの話をするのであれば、もちろんオリジナル版と劇団四季版の違いにも触れなければなりません。
映画と比較する前に、まずは舞台版の違いについて
実はミュージカルCATSは、上演するカンパニーによって仕様が異なります。
(劇団四季はカンパニーを複数持っているけどメンバーがカンパニーをまたいで配役されるようなイメージですかね、いやうまく例えられないですがこのほうが特殊なんです)
たとえばシェイクスピアの定番の演劇などでは、劇団によって衣装や美術を工夫して、独自の表現をすることはよくあります。
しかし、ミュージカルCATSは、衣装どころか「出てくる猫まで変えてしまう」のです。
そのときどきの上演で、出てこない猫がいたり、下手したらカットされてる曲があったり、オリジナル版(ウエストエンドの初演バージョン)とメロディーがまったく違う曲が使われたこともありました。
劇団四季版はオリジナル版とかなり違う
劇団四季版も例に漏れず、オリジナル版とは衣装も「猫」も異なります。
だいぶです。
だいぶ異なります。
なんなら振り付けも違います。
また劇団四季で上演してるものがずっと変わらないかと言うとそうでもなく、衣装が変わったり新猫が登場したりもします。
つまり変化するのがミュージカルCATSであり正解はないのです。
全部あげていくとキリがないですがたとえばイギリス版にいる「アロンゾ」とか歌詞にも出てくるのに四季版では跡形もないですし、「タントミール」なんてどこから出てきたって感じだし「スキンブルシャンクス」はパンツ履いてない。
「ヴィクトリア」はメモリーを歌わないし、かわりに「シラバブ」がメモリー歌っちゃうよ。
冒頭のネーミングオブキャッツで羅列される猫の名前。
それらは、本来なら歌詞ですよ?歌詞なのに?
違うんですね〜オリジナル版と。
変えちゃうんですね〜オリジナル版と。
それでも許されるのがミュージカルCATS。
CATSの映像化はこれが初めてではない
えっ?
DVD版?
なにそれ?
はい、あります。
これです。
私が持ってるのはこの古いDVD版なんですけど、今はブルーレイ版も出てるみたいですね。
1998年に製作されました。
これは今回のような映画ではなく、「舞台のセットを使って実際に上演しているかのように見せて撮影したカメラのクレーンの影が映っちゃってる雑なビデオ」です。
はい、そうです、このDVD版のクオリティはそこまで高くありません。
なんていうか、海外だな〜みたいなクオリティです。
人の作ったもんにケチつけるのもあれですが、まあ、その、しょぼいのです。
それもそのはずで、実を言うと劇団四季版の振付や衣装・セットというのはかなりクオリティが高くてですね、しかも群舞が得意なモノづくり一億総オタクニッポンの劇団四季に開発されてしまった日本人四季ファンは、この映像で一度ダメージを受けるのです。
私はこれを観たことがあったので今回の映画がいかに酷評されていようと耐えられる自信がありましたが、実際に観賞してオーバーチュアの途中で自信が砕け散りました。
DVD版では、劇団四季版では観ることのできない「犬がたたかうやつ」とか「マンっゴージェーリ」を観ることができますが、反対に劇団四季版で観ることのできる「ちゃんとしたグロールタイガー」は観ることができません。
今回の映画版でも、やはりグロールタイガーの海賊シーンは観られませんでした。
「ビリ〜ビリ〜マッコ〜」はどのバージョンでも観られません。(観たい)
大井町キャッツから犬がたたかうやつが追加されて泥棒猫も変わったという衝撃情報をいただき、いそいで観に行ってきました。わんわん曲自体は好きなんですけど、どうしても流れ的に蛇足感は否めないなと感じました。ガチ初見だったら気にならないのかもしれませんが無いバージョンのテンポの良さを知ってるとちょと気になりますね…。
あと岩崎タンブルの「キャッツ・シアターのヌシ」感がすごかったです久しぶりに観れて良かった。
結局のところ、DVD版CATSも好き
誤解しないでいただきたいのは、わたくしこのDVD版、好きです。
慣れたらかなりクセになります。
最初は面食らいましたが結局かなりリピートしましたし、四季より振付が簡単で「できそう」という勘違いをすることができるため、テレビの前で踊りました。
そしてマンカストラップがあまりにも美しいので、内容に不満がある人もその美しさだけは評価してくれたりします。
キャッツ映画版での変更点とその是非を問う
劇団四季版しか観たことない人が「原作と違う〜」とか言うのは、にわかがどうとかではなくて「そりゃ原作と違うだろ」でしかありません。原作、ミュージカルじゃないんだから。ミュージカルだって、どこも同じやつ、やってないんだし、変わっちゃうんだから。
映画でいうならオールドデュトロノミーが雌になっちゃってるし、ミストフェリーズは帽子なんかかぶらねーし、グロールタイガーはそんな雑魚じゃねーし、ジェニエニドッツがろくにタップしなくてガッカリしたのにあまつさえスキンブルシャンクスがタップするってどういうことだよってなります。
まあスキンブルシャンクスは元のミュージカルを知らなければ、曲に合っててわりと良いシーンだったと思います。レールと猫のサイズ感おかしいと思うけど
スキンブルの衣装に関しては、過去の経験をもとにとにかくまずパンツだけは履かせた感じがしますが、四季版やDVD版を見慣れているとパンツを履いていることでむしろ変態感が増して感じられるのが不思議です。
あと四季のスキンブルはふつうにかわいいキャラとして成立するビジュアルに仕上げられているのに対し、海外のスキンブルはいわゆるイギリスの労働階級らしさを忠実に表現していてある種の「働くオッサン」感があります。映画版のスキンブルは完全にCV:大塚周夫の髭でした。
グリザベラのアイデンティティとメモリー
「グリザベラ」を娼婦猫としなかったところには現代的な配慮を感じましたが、設定上とくに無理のない変更のしかたでした。
メモリーはあまりにも感情的に歌いすぎて曲の良さが損なわれているように思いましたが、「映画だしここ魅せるぞ!観客はここで泣くんだ!見りゃ誰にでも泣くとこってわかるだろ!」という作り方は、ある種全世界仕様かなと思ってます。
日本のように、たとえば時代劇の殺陣の「間」で表現する、ワビサビや行間を読む文化と違うということ。
さらに、比較的均等に教育の機会が与えられ中流階級の占める割合が高い日本と比較すると、歌詞の技巧よりも感情で理解させないとウケない層がいるという事情もあるかもしれません。
舞台は観に行かないけど、映画でなら楽しめる低所得層の取り込みを意識していたらそうするかなって思いました。(ほんとあくまでも想像ですよ)
インド映画は外国人が多かったり言語がわからない人が多くて見た目でわかる派手なアクションとダンスに特化したという事情もあるので(最近はそうでもないとか)、それと似たような感じで、私のような日本しか知らんような人間には想像もつかないその国ごとの事情なんかはやはりあるのかなって思います。
ただ、「原作」が秀逸な詩であることを考えると、やはり歌詞がきちんと聴き取れること、その「音」や「リズム」の良さを残すことは大事ではないかと思います。
編曲がクソという酷評もかなりありましたが、たしかに原曲の良さも、そういったところにもあったかと思います。
舞台版の、みんなから離れてひとり佇み静かに歌い、控えめに、けれどもたしかに心から、訴えかけるグリザベラの空気感は、映画版では表現しきれていないように思いました。
マキャヴィティおまえどうした
ほんとうにみなさんには舞台版をぜひご覧になっていただきたい。
というか舞台版を観ずに映画版を観てしまった人たちが、今から舞台版を観てマキャヴィティのイメージを払拭できるのかわからない。
たしかに舞台版もオールドデュトロノミーを攫うし、むしろ舞台版のほうが「なんで攫った」感が残ります。
ただ、あんな小者にしないでほしかった…誰得なの…
吹替版の山ちゃんの贅沢さと無駄遣いが半端ない。
マキャヴィティ歌わない猫なのになんでわざわざ歌える山ちゃんをそこに…スキンブルシャンクスにしてくれ…
「マキャヴィティは…いなぁ〜い」
原曲のかっこよさも、ボンバルリーナのかっこよさも、すべてオーバーキル。
映画用にストーリーの変更を加えるところまでは構わないと思うのですが、スリル、サスペンス、映画ならではの表現で盛り上げてくれたら良かったのに、とそこが残念です。ただのありがちな「悪役ストーリー」をとってつけたようになってしまっています。
なんでわけのわからない魔法みたいなの使えるの?っていう。
暗躍していて捕らえられない、駆けつけたらそこに死体が転がっている、ジャックザリッパーを彷彿とさせる、そんな雰囲気をまとっているのが本来のマキャヴィティのキャラクター性です。
映画版はむしろオリジナル版に近い
それでも、劇団四季版と比べたら今回の映画版の登場猫はオリジナル版に近いです。
本来なら特定の主人公の存在しない、みんながとくべつな猫である世界を映画化するにあたり、ヴィクトリアを中心にしたのも良かったと思います。
ここで下手に映画オリジナル猫などを出しても、その猫の好き嫌いが映画の評価に影響しそうです。
舞台版を観ていても、「都会のゴミ捨て場で生き抜く猫たち」という設定の中、首輪をしている猫がちらほらいることを疑問に感じる人もいると思うのですが、冒頭のヴィクトリアの経緯があるためそのあたりをすんなり受け入れて、首輪したまま捨てられたのかなって想像できるようになっているところが良いですね。
ミストフェリーズやジェニエニドッツは歌詞から「飼い猫(外飼い)かな」というのが窺えたりするので、そういうところにも注目して観てみると面白いです。
ヴィクトリアに肩入れしてる人間からすると、マンゴジェリー&ランペルティーザのシーンは「純粋無垢なヴィクトリアに何さしてくれてんねん」って思ったりもしますが、反対にヴィクトリアがタガーに「にゃーん」ってなることに違和感を覚えていた人間からすると、「はじめて見る雄猫のセックスアピールに強い刺激を受けてあてられてしまった初心な乙女(その後もっと普通の男の子のミストフェリーズに惹かれる?)」という経緯が補完されていて、若干納得しました。
ミストフェリーズに関しては原詩だと「ちっちゃくて隙間に入れて細いところも平然と渡り、声はすれども姿は見えず神出鬼没、スプーンを隠したりいつの間にか戻したりとまるでマジシャンのような猫」というのを表現した結果のキャラクターなので、映画のヘタレ設定は、原詩のキャラクターの個性の意味合いとはちょっと違っています。
しかしストーリー性を持たせて膨らませたい意図があれば、そこをそうしちゃうよな、というのは理解できます。
舞台でもミストフェリーズとヴィクトリアがペアで踊るシーンがあって、パッキリした黒と白のビジュアルがとても美しいです。(舞台版に恋愛要素はないです)
劇団四季版のミストフェリーズなんてあまりにもかっこよすぎていいところ全部持っていくしみんなが「Mr.ミストフェリーズ」連呼しまくって讃えまくって踊りまくって手を叩きまくって観客にも手拍子を煽りまくるので、初見だと「ミストフェリーズが選ばれるのでは」って思ってしまうくらいなのですが、映画はそこんとこちゃんと「ヴィクトリアが選ばれるのかな」って持っていってるのでうまいと思いました。
そして、「ジェリーロラム」ではなく「ガス」が息をつきながらも自分で自分の歌を「演る」のは、DVD版の”サー”ジョン・ミルズや、ガスというキャラクターそのものへのリスペクトすら感じます。
あー、めっちゃ褒めた。
…は?どこがオリジナル版と近いんだ???正気か?????
映画版がオリジナルと同じである必要性がなかった
といった感じで、CATSという作品の特性からいって、「先に生まれた作品と異なる」ということはたいした問題ではありません。
「原作と違う〜」問題の結論としては「原作」「ミュージカル(オリジナル版)」「ミュージカル(他国版)」「ミュージカル(円盤)」「映画」はそれぞれ、別物であってもなんら問題ないということになります。
映画版キャッツに対する誤解まとめ
1万字超えてしまったのでもうやめときます。もういいや推敲しなくて。夜中の勢いで投稿しちゃう。
「あそこはあれでこれで、ここも注目ポイントなのに見逃してるうんぬんかんぬん」みたいなのは取り合いません。書ききれないもの。
ちなみにいつもパンフ買うんですが今回なんかスッと劇場を出てしまって買わなかったので、パンフその他のスタッフのインタビュー記事などはキャッチアップしておらず、なにも確認せずに憶測で書いています。どこかで設定などについてきちんと言及されているところがあるかもしれませんね。